大樹寺17
続き
「准西国廿五霊場」を知り、自分でも新たな「写し霊場」をつくりたいと願った人が三河にいました。その人は家田宋太夫という方だそうですが、発願はしたものの病に倒れ63歳でこの世を去り、実現することはできませんでした。
この霊場創設の発願を病床の父から遺言された息子の森三左衛門は、父の死後30年が経過した頃の1882年(明治15年)、故郷を出発し3ヶ月かけて本霊場の各札所で霊土を賜りました。そして、その頃には巡拝自体が中絶され誰も知る人がなくなってしまっていた「准西国二十五霊場」を再興するために、賛同者を募り再興事業をスタートさせたのだそうです。なお、その年は父宋太夫の33回忌にあたり、この再興事業は法然上人への報恩のためだけではなく、父への追善供養のためという意味もあったのでしょう。
エリアは、もとになった「准西国廿五霊場」よりも拡大させ、豊田市・知立市・刈谷市・碧南市・安城市・岡崎市から豊田市に戻るルートにし、当然札所もすべて「准西国廿五霊場」とは違うお寺になりました。25ヶ所の寺院は「本霊場」と一つ一つ対応させ、たとえば1番札所性源寺は「一番 美作国誕生寺写 渋川性源寺」というようにきちんと対応させました。またそれだけではなく、本霊場の寺院と共通の要素を持つ寺院を札所にしたところもあります。例えば奈良大仏写しの札所は、伊勢神宮寺から遷座された大仏を本尊としている寺院にし、あきらかに「大仏」を共通項にするよう意識しています。
また「本霊場」にはいくつかの「番外」があって25霊場以外の霊場がいくつかありますが、この「番外」までも写しに取り入れています。それどころか「本霊場」にはない、三左衛門が独自で選んだ「番外」の霊場もつくりました。三河の地を巡礼するのに外せないお寺がいくつもあったからなのでしょうか。じつは大樹寺もこの三左衛門が独自に選んだ「番外」の霊場なんだそうです。
このようにして三左衛門は「三河国廿五霊場」をとても工夫して創りあげましたが、寺院の方から何か働きかけがあったわけではないようで、三左衛門個人の発願であるため、当時各寺院が巡礼者に対して積極的に対応してくれたかと言えば、それは不明なんだそうです。場合によっては、「個人が勝手にやったことだから当寺は関係ない」という対応をされた寺院もあるかもしれません。
2017年8月29日
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