
大樹寺5

右手前から、5代長親・6代信忠・7代清康のお墓です
【6代信忠・7代清康】
5代長親は1503年に、まだ13歳だった信忠に家督を譲ります。これはどうやら形式的なもののようで、長親は出家はしましたが実権を握ったままだったようです。ところで信忠は暗愚だったようで、「三河物語」は「宗家の『家憲』として当主の具備すべき『武勇・情愛・慈悲』のいずれも信忠には備わっていなかった」と辛口です。家臣達からも出家した長親に対して相談が寄せられたそうで、結局34歳で家督を息子に譲り出家させられることになったのだそうです。このとき息子の清康はまだ12歳でしたので、祖父長親・父信忠が清康を後見したということです。なお、信忠は父に先立ち1531年に41歳で亡くなりました。
7代清康は大変優秀だったそうです。若くして家督を継ぎましたが貪欲に版図を広げていきました。安祥松平家の版図は三河の一部でしたが、まずは岡崎城を攻めおとし岡崎に拠点を移し、新たな城下町を築きました。これが15歳の頃です。後見されていたとしてもなかなかできることではないように思います。18歳の頃に西三河・東三河と東西両方に進出し、またたく間に三河国を統一しました。20歳頃にはさらに西に向かい尾張に侵入します。その後25歳の頃に尾張の織田(この頃の織田は信秀)と交戦しはじめます。ところが、織田方の守る守山城を攻めている時に、突然家臣に切られて即死してしまいます(森山崩れ)。これは家臣の安部定吉が陣中で謀反の疑いをかけられ(実は織田方の謀略でした)、息子の正豊に「自分が殺されるようなことになったら、無実を晴らしてほしい」と言っておいたところ、たまたま馬が暴れる騒動が起き、このとき自分の父が殺されたと勘違いした正豊が清康を殺めてしまったのだそうです(そのとき正豊も殺されましたが、定吉は責任をとり自害しようとしましたが、家督を継いだ清康の子広忠に許されました)。
松平家が隆盛を迎えようとしていたときに起きた事件で、求心力を失った松平家はこのときを境に苦難の道をたどることになったということです。
2017年7月4日
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