岡倉天心1
天心は明治の文人で、日本画改革運動、古美術品の保存、東京美術学校の創立、日本美術院の創設、ボストン美術館中国・日本美術部長就任など、近代日本美術界に大きな功績を残した方です。
彼は幕末の1863年に生まれました。父は福井藩士でしたが、福井藩が海外貿易に目をつけ横浜に開いた生糸貿易の店「石川屋」に赴任させました。天心はその後しばらくして誕生したので、横浜生まれということになります。こういう家で育ったため、店を訪れる外国人と接点が多く、彼は幼い頃から英語に慣れ親しんでいきました。
東京外国語学校(のちの東京外国語大学)や東京開成学校(のちの東京大学)で学び、学生のうちに結婚。卒業後文部省に就職、専修学校(のちの専修大学)で教師も勤めました。
文部省勤務の頃、古社寺を訪れていく中で古美術に対する造詣を深めていきます。時代は明治初期で「廃仏毀釈」が行なわれていく中で、仏像などの破壊・海外流出などの事態を憂えていました。そして彼は文化財保護・修復について、意見書を出し、それを推し進めていきました。
また、彼は日本での美術学校の必要性を説き、美術教員・美術家養成のために東京美術学校(のちの東京藝術大学美術部)を創立しました。彼の理念が具現化されたといってよい学校で、彼は校長になりました。第1回目の卒業生には横山大観がいます。しかし、そのうち彼の専権的な学校運営に批判が集まり、彼は辞職することになりました。彼の辞任に伴い横山大観など何人かの教授たちが連名で辞職し、この事件は美術学校騒動といわれています。
彼は、一緒に職を辞した教授たちとともに日本美術院(現在では「院展」を主催する美術家による団体)を東京上野に創設しました。日本美術院の目指したところは日本画の改革で、日本画の特徴のひとつである「線」を用いずに、西洋画法を取り入れた線のない「没線主彩」による新たな表現にチャレンジしていきます。
しかし、そのやり方は一般には理解されずらく「朦朧体」などと揶揄されました。その後衰退していった日本美術院を立て直すため、場所を茨城県五浦に移し、苦しい生活を強いられながら、技法の改良を行ない、画面の明瞭さを取り戻しながら悪評を払拭していきました。
つづく
2014年11月25日
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