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仏教とお墓2

中国仏教を日本に伝えたのは、中国からではなく朝鮮半島からだと言われています。
当時(6世紀)朝鮮半島は、新羅・高句麗・百済という3国がせめぎあっていましたが、そのうち百済は他の2国に圧迫される中、日本に援軍を求め、日本との結びつきを強くしようとして、当時の最新文化である仏教を伝えようとしたとも考えられています。

民間ではすでに仏教を信ずるものもいたようですが、百済から薦められた「仏教」を正式に国としてとりあげるかどうかという段になって、反対勢力が激しく抵抗します。
当時の欽明天皇が大臣たちに仏教信仰の是非について問うたところ、神道勢力がそれに反対します。神道はそのころの日本の祭祀を担っており、神道勢力とは、それをつかさどっていた中臣鎌子や物部尾輿らのことです。逆に、仏教を新しい宗教として積極的に受け入れようとしたのが蘇我稲目でした。天皇は百済から贈られてきた経論と仏像を蘇我稲目に下げ与え、稲目は自分の家を寺にして、仏像を崇め奉りました。
そのあと、国に疫病が流行りましたが、尾輿らは「外国から来た神を拝んだので、国津神(神道の神様)からお怒りをかったのだ」として、寺を焼き仏像を川に投げ捨てたりしました。

結局この争いは、その子供たちの代(物部守屋、蘇我馬子)にまで続き、用命天皇の後継者をめぐる争いで物部守屋が亡くなるまで続きました。この争いで、蘇我氏方についた厩戸皇子(のちの聖徳太子)は戦勝祈願として四天王に願をかけ、見事に勝利したので大阪の地に四天王寺というお寺を建立したというエピソードが残っています。また、馬子も神々に願をかけ、戦勝のあかつきには寺を建立し三宝(仏、法、僧)を広めると誓い、戦いに勝ちました。厩戸皇子は、制定した17条憲法の第2条に「篤く三宝を敬へ 三寶とは佛(ほとけ) 法(のり)僧(ほうし)なり」と書いたり、経典の解説書を書いたりして、仏教を積極的に取り入れるようにしました。
こうして仏教は鎮護国家の道具として国になくてはならないものになっていきました。

2014年10月21日

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