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彼岸会1

昨日で春彼岸もおしまいになりました。お彼岸は他国にはない日本独特の行事なのですが、いつ頃から始まったのかは定かではありません。文献に残っている最古のものは、 日本後紀という書物に載っている西暦806年3月に執り行われた彼岸会です。今回はこの彼岸会についてお話しします。

そのむかし奈良時代末期に、早良(さわら)親王という皇族がおられました。早良親王は、有名な桓武天皇の弟です。父は光仁天皇ですが、母方が下級貴族の出だからか皇太子になるようなことは考えておられず、出家をして親王禅師とよばれておられました。しかし、兄である桓武天皇が皇位を継いだ時に、父の勧めで還俗し皇太弟となりました。桓武天皇に何かがあれば皇位を継承するということです。(これには天皇の血筋を天智天皇系に限定するという意図があったのですが、話が逸れるのでここでは触れません)

桓武天皇には悩みがありました。寺の僧たちが増長がしていて、政界に入り込んでは政治に口を出していたのです。奈良の都(平城京)に居続ける限り、東大寺をはじめとする僧たちに悩まされることになるのです。そこで桓武天皇は奈良から引っ越すことにしました。遷都を決断したのです。そこで、当時の側近である藤原種継に新しい都の場所を探させました。
ところが、その種継は自分の母方の実家が近く、その影響力を利用しようとしたのか、京都の「長岡京」というところを天皇に勧めます。彼は天皇の許可を得て、造宮をはじめました。果たして種継は、造宮中に矢で射殺されます。桓武天皇は嘆き、暗殺者を捕まえたところ、天智天皇系でない大伴一族の仕業だったので、その一族の者も捕まえました(歌人の大伴家持は事件の1ヵ月前に亡くなっていましたが皇族から除籍されてしまいました)。そして大伴家は早良親王とも親しかったので、早良親王も疑われ幽閉されます(一説には桓武天皇が皇太子を自分の息子にしたがったからだとも言われています)。早良親王は淡路島に流刑となりますが、行く途中無実を訴えるため絶食し、そのまま亡くなってしまいました。

次回に続く

2014年3月25日

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