鑑真
今日2月4日は鑑真が入洛した日なんだそうです。そこで今日は鑑真についてお話ししたいと思います。
鑑真は奈良時代に中国から命がけで日本にやって来た僧です。中国では、若い頃から律宗を学び、仏教徒が守るべき戒律を研究し受戒も行っていました。
五十歳を超えたある年、日本からやって来た留学僧に「戒律を日本に伝えてほしい」と懇願されました。日本は、仏教伝来時に戒律はあまり重視されず、自分で自分に受戒する「自薦受戒」が行われており、その後、税逃れのために出家する者が増えてきたりしたので、奈良時代になって戒律を重んじ受戒制度を整備する必要性が問われはじめていました。
鑑真は弟子たちに「日本に行って戒律を伝えようと思う者はいるか」と問いましたが、当時日本に渡ること自体が命をさらす危険な行為だったため、誰も手を挙げませんでした。そこで彼自ら日本に渡ることを決意したのです。また、結局それを聞いた弟子21人も随行することとなりました。
鑑真の渡日は何度も失敗しました。
最初は、渡日を嫌った弟子が「あの日本僧は実は海賊だ」と港の役人に嘘の密告をしたため、日本僧は追放、鑑真は国に留め置きとなりました。
二回目は、暴風にあい途中で船を戻さざるを得ませんでした。
三回目は、鑑真の渡日を惜しむ者からの密告により、別の日本僧(栄叡)が逮捕されてしまいました。
四回目は、獄死を装い脱獄してきた栄叡が「今までの出発地点では出国が難しいので、違う場所から出国しましょう」と提案したため別の場所に移動しましたが、弟子が安否を気遣って渡航阻止を役人に訴え、役人に渡航を差し止められました。
五回目は、出港後近くの群島で数ヶ月風待ちをしたあと日本に向け出発しましたが、やはり暴風にあい2週間の漂流の上、日本とは反対方向の南西の海南島にたどり着きました。
一行は海南島で1年を過ごした後、もとの寺に戻ろうとしましたが、途中で栄叡が亡くなり鑑真自身も疲労や環境の違いなどで両目を失明してしまいました。
翌年日本からきた留学僧に、なんとしてでも日本に渡ると約束し、その帰りの船に乗せてもらうことにしましたが、皇帝がその才を惜しんで渡航を許さず、留学僧は帰りの船に乗せることを拒まざるを得ませんでした。しかし、それを知った副使が、正使の船には乗せられないが、副使の船ならと鑑真をこっそり乗せたのです。
結局、正使の船は暴風にあい南方に流されてしまいましたが、副使の船はなんとか鹿児島にたどり着くことができたのです。
そして福岡の大宰府で日本で初の受戒をし、1月に奈良の都にやってきて天皇から歓待を受け、京都に入ったのが2月4日だというわけです。
その後は戒律を整え、何人もの僧に受戒をし、日本の受戒制度を築き上げたのです。
五十代にして日本に戒律を伝えたいと思いたち、その一念で命がけで六十代半ばにしてやってきた鑑真の執念は恐るべしだと思います。心の底から戒律を守ることの大事さを伝えたかったのだと思います。
この鑑真の思い、平安時代以降の私たち日本人の大半は、忘れている(もしくは知らないでいる)のかもしれません…
2014年2月4日
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