供養について6
前回では、日本でたくさんの年忌が増やされたというお話をしました。今回は、その理由をお話します。
(第1回目のときに「供養にはさまざまな解釈があるので、以下の話は他の解釈を否定するものでは全くありません。ひとつの解釈としてお読みください」と書きましたが、これから書くお話も1つの解釈であることをご承知おきください。念のため)
まずは、7回忌・13回忌・33回忌の3つは室町時代に増えたといわれています。この3つを中国から入ってきた十王信仰に加え十三仏信仰と言います。その後時代が下り、江戸時代に17回忌・25回忌・27回忌・50回忌・100回忌と年忌が増えていったと言われています。
江戸時代というのは、「キリシタン」や「日蓮宗不受布施派」などのようにいくつかの宗旨・宗派の信仰が幕府より禁じられていて、信仰した者は幕府から弾圧され、捕まったり改宗をさせられたりすることになっていた時代でした。そして、江戸幕府は人々の管理方法として「寺請制度」という制度(法律)を設け、人々を管理していったのでした。
寺請制度とは、お寺から仏教の檀信徒であることの証明をしてもらうことで、人々は必ずどこかのお寺の檀家にならなければならなかったのです。そして、幕府は人の管理をお寺にまかせ、お寺では「宗門人別帳」が作られました(現在の「戸籍」にあたります)。旅行や引越しをするときはその証文(寺請証文)が必要となりました。こうして幕府は、信仰を禁じた宗教への対策を施し、人々を管理することにしたのです。
このようなしくみができあがってくると、お寺は事実上幕府の出先機関の役所となっていきます。幕府という大きなところからお墨付をもらったお寺は、さらに幕府の威光を借りて、さまざまな工夫をしていきます。各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習ができあがり、一定の信徒を確保し収入を増やすしくみをつくりあげていきました。そのひとつとして、法要の回数を増やして収入をあげようと考えたのです。それがたくさんの年忌が作られた理由だといわれています。
続きは次回にお話します。
2013年3月12日
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