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天海1

天海は、安土桃山時代から江戸時代初期の頃の天台宗の僧です。徳川家康の側近として江戸幕府のさまざまな政策に関与して重用されました。

生まれは会津で蘆名家の一族だといわれていますが、本人はどこの生まれかどこの家のものかは忘れたと言っています。生まれ年もはっきりしてはおらずいろいろな説があるようですが、100歳以上の長命だったことは間違いないようで、一説によると107歳で没したと言われています。当時にしては大変な高齢ですが、亡くなる直前まで幕府の中枢で活躍していたということで、バイタリティのある人だったといえます。

幼い頃の記録がないのでよく分からないですが、14歳の頃宇都宮の粉河寺で天台宗を学び、比叡山延暦寺・三井寺・興福寺などで学問を修め、甲斐・会津・上野など諸国を転々とし、50歳頃武蔵無量寿寺北院(今の川越市)で「天海」を名乗ったそうです。この無量寿寺北院の頃にはもう家康の幕営にいたそうで、そのあと家康に重用され、主に朝廷との交渉役や、信長の焼き討ちによって壊滅した比叡山延暦寺の再興に関わったとされます。

家康が危篤に陥ったとき、天海らに自らが亡くなった後の神号や葬儀に関する遺言をしたのだそうですが、亡くなった後の神号をどうするかで他の重臣たちと論争になりましたが、結局天海の主張した「権現」が通り、家康は「東照大権現」となりました。

彼は大師号を贈られるほどの高僧で、機知に富んでいたらしく当意即妙な言動で人々を感銘させるような人物だったそうです。家康亡きあとも2代将軍秀忠3代将軍家光にも重用され、秀忠にも家光にも長寿の心得を歌にして贈ったりしたそうで、初期徳川家のよきアドバイザーであったようです。

彼は寛永20年(1643年)に没しました。墓所は栃木県日光市にあります。

余談ながら、天海は明智光秀と同一人物だという説があるそうで(または光秀の従兄弟光春、光秀の娘婿の秀満という説も)、彼の前半生が不祥で50歳を過ぎてから急に家康の側近として脚光を浴びるようになったことからそのような説が出てきたのでしょうか。

2015年5月26日

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