田沼意次
田沼意次(おきつぐ)は江戸時代中期の政治家で、農本主義の江戸幕府にあって、珍しく重商主義政策をとった人です。
もともとは父意行が紀州藩(和歌山)の足軽でしたが、8代将軍吉宗が将軍になるにあたり、紀州藩士を多数幕臣にし江戸に連れてきて側近にしたため、意次は江戸の屋敷で幕臣として生まれました。彼もまた、のちの9代将軍である家重につかえ父の名跡を継ぎました。父から継いだ頃は石高600石でしたが、その後家重が将軍になったこと、重職に抜擢されたこともあり、どんどん加増され、1万石の大名になりました。家重の死後も、10代家治にも信任は厚く、最終的には5万7千石の相良藩藩主になり、老中も兼任しました。
彼が老中になる前は、幕府の財政は大変悪化していました。これを払拭すべく、彼は町人・商人に手厚くする重商主義政策をとり、米年貢中心から金銭中心の政策に転換していきました。この結果、幕府の財政は立ち直り、景気もよくなりました。
しかし、都市部は発展していきましたが、農村部で益が薄くなった農民が田畑を放置し都市部に流入したり、大火事や浅間山噴火などの災害が続き、天明の飢饉と呼ばれる食糧難や疫病がはやりました。それに対して彼はさまざまな手を打っていきましたが、各諸藩が米価値上がりをよいことに年貢の取り立てを厳しくしたりしたこともあり、一揆・打ちこわしが発生し、不満を持った者たちから、商人に権益を図りすぎたことによる贈収賄疑惑が流されたりしました。
そんななか、彼の息子が江戸城中で暗殺されたこともあり、権勢は衰え、ついに失脚してしまいました。処罰として、財産没収や屋敷明け渡しなどもされ、田沼家は孫が陸奥1万石になることで家督を継ぐことをやっと許された程度でした。彼は失意の中1788年江戸で死去しました。70歳でした。
彼が失脚した頃から「賄賂政治家」というイメージをつけられ、その後それが定着したため、悪役というイメージがついてしまいました。このイメージは彼の政敵・反対派が流説させたものだという見方もあります。彼の没後松平定信により私財を没収されましたが、財産は「塵の一つもない」という逸話が残っているそうです。
人のイメージというのは刷り込まれやすいもので、後世にまで誤解されてしまうこともある例だと思います。
田沼家のお墓(東京都豊島区)
2014年7月1日
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