中江兆民1
中江兆民は明治時代の思想家です。今回は兆民のお話をいたします。
彼は1847年に高知県で生まれました。外国語を学ぶのが好きだったようで、18歳で長崎に留学をします。江戸末期に兵庫に港が開港されると、大阪に出てフランス外交団の通訳として働きました。
時代が明治になり、彼は、明治政府が海外に人材を派遣した「岩倉使節団」に採用されました。アメリカ・フランスを見て回り、帰国後、フランスの思想家ジャン・ジャック・ルソーの「社会契約論」を訳したりしました。
明治8年に東京外国語学校の校長になりましたが、教育方針が文部省と対立したためすぐ辞職。その後は元老院で翻訳業務を務めています。
元老院を辞めたあと、自由民権運動が広がる中、自分で私塾を開いたり、新聞で自由民権を主張したりして政府の行動に批判的な活動を行なったため、当時の「保安条例」にひっかかり東京を追われます。
大日本帝国憲法発布による恩赦で罪を許され、第1回衆議院議員選挙では大阪4区で出馬しました。そのとき彼はあえて自分の戸籍を大阪の被差別部落に移し、最下層身分の者であることを掲げ選挙に臨み、被差別部落民の支持を得て、見事1位当選を果たします。
当選後、彼は、民党の設立に奔走し「立憲自由党」という、政府から独立した党を結成しますが、政府の切り崩し工作による自由党土佐派の裏切りにより、予算案が成立したことに立腹し辞職してしまいます。
その後は北海道に移り住み、実業家として活動を行ない、材木業を営み、鉄道業にも関わっていきました。
晩年、国民党を結成し、政界復帰をもくろみましたが、1901年(明治34年)喉頭がんで亡くなりました。54歳でした。
なお、彼の亡くなった後仲間がお別れの式を行ないましたが、これは日本で最初の告別式なのだそうですよ。
彼の生涯は自由民権に捧げられたといっていいと思います。もともと故郷の土佐藩(高知県)は、侍身分でも上士・下士の差別が激しく、下士に生まれた彼は差別に対しつらい思いをしてきたのではないかと思われます。そうした経験が自由を求める気持ちを育てたのでしょう、民権より国権を重視する明治政府と相いれず、ことごとく政府と対立し、政府と戦い続けた半生だったといえるのではないでしょうか。
2014年9月9日
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