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芥川龍之介1

芥川龍之介は、明治~昭和初期の小説家です。「羅生門」「鼻」「杜子春」「河童」など数多くの作品を残しています。

彼は明治25年に東京で生まれましたが、実母が精神障害だったそうで、生後1年もしないうちに実母の姉の家(芥川家)に預けられます。11歳の時に実母が亡くなり養子となりました(そのとき名乗りが芥川になります)。
学生時代は成績が優秀で、東京帝大に進学してから文学作品を書き始めます。代表作「羅生門」を発表したのち、夏目漱石の門下に入ります、そこで発表した「鼻」が漱石の絶賛するところになり、小説家として順調なスタートを切ります。

夏目漱石の門下に入る前後、彼はある女性と交際をします。彼女は文学が好きで彼とは相性がよかったようですが、彼女に縁談が舞い込んだのをきっかけに龍之介は求婚を考えました。しかし養父母に反対され(彼女が「士族」でないこと、私生児であることなどが理由だったようです)、あきらめるしかありませんでした。彼は遺書に、養父母に対し遠慮があり我儘らしい我儘を言うことができなかったという文を書いています。彼の人生に少なからず影響をあたえた出来事だったでしょう。

作品は高く評価されますが、酷評する人たちもいました。その批評も的外れだったようですが、彼は反論せず作品制作に打ち込んでいきます。
卒業後は海軍機関学校の嘱託教官となりましたが、しばらくして毎日新聞の社員になります(新聞に寄稿するのが主な仕事です)。そこで収入が安定してきたからでしょう、彼は結婚をします。子供は男子が3人でき、子煩悩だったということです。ちなみに長男は俳優の芥川比呂志、三男は作曲家の芥川也寸志、次男の多加志は若くして戦死してしまいました。

彼は30歳ころから体調を悪くしていきます。下痢や神経衰弱など病気に悩まされるようになりますが、それより悩まされたのは文壇のある既婚女性でした。一時期その女性と密会を重ねるほどのめりこんでいましたが、彼女はかなり利己的な女性だったようで、次第に龍之介につきまとうようになりました。自宅にまでおしかけてくることもあったそうです。
また、当時の作家の代表作を集めた「近代日本文芸読本」という本を龍之介は刊行しました。100人以上の作家に自ら手紙を書き、収録の承諾を得るなど苦労したようです。2年もかけて努力した割に、その仕事の性質上、収入は少ないものでした。しかし、「芥川は自分だけ儲けて、書斎を新築した」などとという噂が文壇に流れました。多くの作家を紹介しようと苦心したにも関わらず、評価どころか、それらの作家たちから悪評を立てられたのに彼は傷ついたことでしょう。
「病気」「女性問題」「言われもない中傷」こういったことがらに対して、彼は睡眠薬などの薬に依存していきます。自殺した義兄の借金も背負い込むことになり、彼は追い詰められていきます。そんな中でも「河童」「或阿呆の一生」などの作品を生み出していきました。ただ、「歯車」「或阿呆の一生」などには自殺をほのめかすような文面もあり、彼の当時の苦悩を物語っています。

彼は35歳で服毒自殺をしました。遺書も遺されていました。何かをきっかけに自殺をするのではない、過去の人生の総決算として自殺するのである。という旨が記されていました。
彼は東京都豊島区の慈眼寺に葬られました。多くの作品を作り上げた才能が、様々な苦悩を抱えて生きてきた結果としての「死」であったのでしょう。

2014年8月26日

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